雨が降っている。久しぶりの雨だ。

季節の変わり目に降る雨はまだ冷たくて、少し濡れただけだった筈の体はすっかり冷え切っていた。
体を震わせて水気を切ったけれども一度冷えた体が温まるのには時間がかかりそうだった。

顔を伸ばして外を見てみるけど――外は薄暗い。
雨が止む気配もまだ無い。
しばらくはこの穴のお世話になることになりそうだった。
別段不都合はないのだけれど、自然とため息がもれるものだ。

雨の音はさらさらと優しい音。
自分の体が収まっている穴の中に響く雨音は外で走りながら聞いていた時よりもまた、格段に優しかった。
僅かに外からもれてくる灰色の光以外に、外から何も情報がない状態だとそれは余計に際立つ。
それにしても…次々と取り留めのない思考が浮かぶ。どうも余った脳の処理能力というものはどうしても内側に向いてしまうものらしい。

だから、僕は体温の低下で襲ってきている睡魔に身を任せることにした。

雨の音が暖かくて、ひどく懐かしいのが怖かったから。

 

§

 

目が覚めたときには雨は上がっていた。そして森は夜になっていた。

体の冷えも、心の高まりも、もう無い。
頭が少しだけぼんやりとしているが、穴から出て更に冷えた空気の中ぶるぶると振ったら治るだろう。

体を起こし、外に出る。

一歩踏み出した地面は少しぬかるんでいた。
が、走る分には問題はなさそうだった。
突然の雨で朝方の狩りを断念した為かなりの空腹なのだ。
脳と心が直結したのを確認してから一気に駆け出す。

夜は、狩りの時間だ。

走りながら聴覚をフル稼働させて、自分の足音以外を探す。
風が葉を揺らす音でもなく、
梟たちが無く音でもなく、
僅かに素早く動く音だけを探知する。
ただひたすらに暗闇を駆ける。

まだ聞こえない。

道はいつもと同じだ。
僕は僕らの種族には珍しく巣穴は固定しない。
が、狩りのルート本能通り固定していた。
そうしないと他の奴と鉢合わせになってしまうからだ。
出会えば争うことになるだろうし、
僕は自分が生きるだけのものが確保できればいいから他の奴の分まで奪おうとも思ってないし、
奪っても意味がない。

まだ聞こえない。

欲張ることには意味はない。
明日明後日生きていられる分の食料さえ手に入ればそれ以上の物は望まない。
僕には余剰分なんてものは価値がないのだ。
その生き方に保証はないかもしれないけど、それはどんな生き方にだって言えると思うから気にはならない。
沢山の食料があったとしても争って死んだらまるで意味が無いじゃないか。

(……?これは……)

立ち止まる。
今度はゆっくりと周辺を探りながら歩く。
考えながら走っていたせいなのか、フル稼働させていたはずの聴覚のレーダーには引っ掛からず、
代わりに、嗅覚が獲物を捕らえた。
濡れた地面で足音が響かなかったのかもしれない。
それしても――

近い。
この雨の臭いの中わかるとなると、そう離れたところではないことは明らかだった。

もう一度聴覚に頼る。
自分が立ち止まったので動くものがなくなった世界は静まり返る。
遠くから響く梟の鳴き声さえも静けさにある独特のピーンという高い音に紛れて消える。

その中。いる。

踏み出す右足に力を込める。
気付かれないよう音を立てないようにするのは基より、風向きも考え風下から少しずつ近づく。
気配と音で分かる獲物の数はニ。
警戒の薄さから巣穴から少しだけ離れた場所で食事中のようだ。
つまり、
穴に逃げ込まれたら最後。
なので、一回でしとめることが前提だ。
体制は低く、呼吸も抑えて…。
月の無い森の暗闇とやや強めの春の風音の援助がありがたい。

距離はもう、一跳びの一歩前。
慣れた緊張感ではあるけどいつまでも緊張している辺り、それは慣れていない証拠ではないかと思う。

一歩を踏み出す。

……気付かれていない。
心が緊張で爆発したとき、
僕は全身を弾けさせた。

空中では他に考えることはない。
ただ、常に獲物を捉え、
そこに全機能を投入する。

着地寸前、一匹に気付かれた。

運が良かった。

眼前に迫った獲物に対して、前足で体を抑え、抵抗がある前に素早く首に噛み付く。
それでも暴れようとする。
それを無視し、全力で噛み付いたまま乱暴に二、三度地面に打ち付ける。
相手の口から空気が漏れ、動きが弱くなる。
口内に血の味が広がっていく。
その中、相手の力が失われていくのを感じる。
まるで相手の生命力を吸い取っているような感覚だ。
狩りは優越感と不快感の混じる不思議な行為だといつも思う。
ともあれ、狩りはうまくいった。
この収穫ならば一日二日もつだろう。
口の中の完全に首の折れた収穫には満足だった。

微かな痙攣を終えた獲物を一度地面に置き、くわえなおす。
ここで食事はしない。
食事は安全な場所で取るのが習慣だ。
食事中に自分が餌になったら笑えそうもないからだ。

今から先ほどまでいた穴に戻るには少し距離があるのでここから近い河原に向かうことにした。
まだ、夜は明けない。
水の音を頼りに森を歩いていくことにする。

ふと、逃げた獲物のことを考えた。

あの瞬間、食べていた、恐らく植物の根だろうそれを投げ捨て一目散に巣へ走っていった。
生命危機回避による反射的で爆発的な速度。
あの場面において負けたからといって即死亡に繋がる訳でもない僕とは違って、
必死という文字通りの行動を起こした生物は容易く破れるものではないのだ。
彼は『生き延びる』と、走り去る姿を見送りながら瞬間的に思った。
でも、彼が逃れられたのは生命の本能だけじゃない。
単に僕が元よりそっちを狙っていなかっただけということもある。
獲物は一匹で十分なのだ。二匹狙っても意味がない。
そのとき必要な食料が確実に手に入ればそう死ぬことはないのだし。
ただそれだけのことで彼は生き残った。
口の中のこれと、走り去った彼、そして僕とではそう違いはなかったはずなんだ。
当然僕が最初から彼を狙っていたら二匹ともに逃げられただろう。
そうなっていたら……
僕が口の中のこれと同じ末路を辿っていたかもしれない。
三者にはそう違いがなくて、その微妙なずれが噛み合って今となっている。
結局生きてるってのは何なのだろうか?
偶然性の綱渡り。
そんなものでくくれる程…僕は気軽に生きてる訳じゃないんだけどな。

 

 

§

 

 

食事を終えた頃、日が昇り始めた。

とは言うものの太陽の姿自体は見えない。
いつものように低い双子山の少し左側から夜が白んでいくのが見えるだけ。
それでも、世界は色を取り戻し、動き始める。
水流の音に混じる声も梟から小鳥達へと変わっていく。
黎明の森は静と動が切り替わる扉に思えた。

雪解け水に顔をつけ、のどを潤すと同時に血を洗い流す。
乾き始めていた血は落ちにくかったが、水を少しだけ染めて流れていく。
その流れを追ったが、赤い染みがすぐに青に飲まれて消えていくのが見えただけだった。

濡れた口先を振り払う。
風に当てると嫌に冷たかった。

加速するように朝が始まっていく。
朝の始まりは自分の活動の終わりを意味する。
朝が来ればどこか適当な場所を探して休む、それだけだった。
昼間に活動するのは得意ではないし、危険を伴いすぎるからだ。
昼はただ、眠ればいい。

さて、他の奴らが活動を始める前に場所を特定しないと面倒だ。
大型の奴らと争いになれば勝ち目はないし、それに争いは無駄が多すぎる。回避しなければならない。

横穴か、朽ちた木の根の下の空洞がいい。幸いにも満腹だ。最低でも二日はいられる場所を探そう。

決めてしまえば後は動くだけ。
出来るだけ視野を広げ、周りに気配を感じない場所を探しながら河原を離れ、森に入る。
狩りもそうだが、目標のない探索は酷く神経を疲れさせる。
どこにあるかもわからないものを探す辛さはいつまでたっても慣れない。
辛いけど止めたりは出来ない。
それが生きていることだから。

 

ギリギリまで歩き回ってようやく見つけた穴は満足とは言えなかった。
雨で急に飛び込んだ時は快適な場所で、危険を冒して限界まで歩いた時はろくな場所が見つからない。
そんなものだとは理解はしているけど、納得は出来ないものだ。
動けば体のどこかがぶつかり擦れる穴の中、身をいつも以上に小さくまとめながら思う。
きっと、目覚めたときは体が固まっているだろう。
寝ぼけて頭をぶつけるのは絶対だ。
でも、それに対してはまた目覚めたときにどうせ文句を言うだろうからこれぐらいにしておこう。

今は眠ろう。休める場所があることを幸運に思って。

 

すぐに目が覚めた。
寝苦しい格好で眠っていたせいだろう。
短時間の睡眠でも予想通り体は固まっていた。
起き上がろうとすると関節が所々パキパキと乾いた音をたてた。そして、ついでに頭も打った。
ここまで来ると悪態をつく気も起きない。
そこだけ予想を外した。

外に出て歩く。
踏みしめる地面は乾いていた。
高い木々の間から見える空は青。
まだ夕刻にもなっていない。
でも、気がつけば歩き出していた。

どうしてそんな気になったのかはわからない。
日の出ている中、こんな風に歩き回るのは経験上賢い選択とは言えない。
大型の動物や、むしろ獣と呼ぶに相応しい奴らもこの時間は活動している。
人間もだ。
それでも。
それでも、ただ、穴を出た瞬間に僕を纏った風に、
雪に冷やされたような心地よい春風に、
僕は体を突き動かされていた。

山から下りてくる風に向かって歩く。
山の春は遅い。僕が普段生活の場としている麓の森では雪は溶けて、もう残ってはいないが、歩いていく道には徐々に増えていっている。

昼に少し溶け夜に再び凍っているのだろう。
ひどく滑りやすい。表面が硬く凍った白い足場を爪でしっかりと捉えながら歩く。

苦労をすることには慣れていた。
けれど、それは生きる為に必要なことであって、今、自分がしていることはとてもじゃないがそれと同列とは思えない。
本当に無駄なこと。
せっかく上質の餌を食べ、長持ちさせられそうなのに…これでは今日の夜は再び狩りにでなければならないだろう。いや、無事戻れて狩りに出る体力が残っているかもわからない。
そう、これじゃあまるで死にたいと願っているみたいだ。生きていくために生きている僕にこれは意味がない。

考えながらも足は動く。
風に向かい、より高く、より近い場所へ。

気がつけば葉の間をすり抜けてきた光をきらきらと反射する雪の道をいつのまにか駆け抜けていた。
心の中にどうしようもない興奮がただ湧き上がっていた。
いや、湧き上がるというか…甦ってきていた。
そこに行きたくて、その暖かさに触れたくて、無意味に楽しくて、そこに待っていてくれるのが嬉しくて。
全てが加速する。

 

白い息を荒く吐きながら森を抜け辿り着いた。

そこ、風の生まれている場所は――草原が広がっていた。

広大ではない。崖の上に突き出るような形の土地で、何故かそこだけ森林にはならずに大きな空間が出来ている。
そしてそこだけが不思議なことに日当たりが良いせいか雪が全て溶け、草花達が生い茂っていた。
全面の緑。

それは春そのものだった。

時折崖の方から吹き上げてくる風がそれらを揺らし、吹き抜けていく。
強風だけど、決して暴風じゃない。
白から緑への色彩の転換に切り替えが間に合わなくて突っ立ったままだった僕にですら、その柔らかい強さは感じ取れた。
押し戻されるのとは違う、表面を包み確実に撫でていきながら過ぎ去っていく感じ。
顔上げると、流れの速い雲とやや薄めの青い空が、視界を妨げるものが全くない崖上からは全てを覆って存在しているように見えた。

草の緑、花たちの赤、黄、紫、雲の白、空の青。全てが鮮明だった。

立ち止まっていた足は動き…むしろ暴れだし、どうしようもなく高鳴る気持ちが抑えられなくなった。

何が楽しくて、
嬉しくて、
喜んでいるのかも分からずにただひたすらに、
その空間、
その空気、
全てを味わっていた。
狩りをする時とはまるで違う、どたばたとするような足運びでただ駆け回る。
視界の端に色の濃い花が見えればそこへ向かい、蝶を追っては中空に飛びつく。
文字通り、夢中だった。

馬鹿げている。
そう、馬鹿げている。
でも、僕はた…―――なんて――愚かだったのか。

風が凪いだ。

目に留まったそれは獲物だった。

よくよく考えれば簡単なことだったのだ。
まだ春の訪れ遠い山で緑あふれているこの場所はそれらを主食とする彼らにとって絶好の餌場であり、
そして僕の絶好の狩場でもある。
恐らくはここに森が形成されていないのも、昔からここは彼らにとって冬の終わりに訪れる楽園のようなもので木の新芽が現れたとしてもそのほとんどが食べつくされてしまうからだろう。
受け継がれてきた最高の餌場。
目の前の獲物も当然のように、いつものように、ここにやってきたのだろう。
きっと彼にとっては僕がここに居ることがおかしいはず。
確かにこんな山奥にこのような場所があるなんて聞いたことがなかった。
仲間同士の繋がりをほとんどもたない僕でさえ、このような狩場があったとしたならば何らかの手段で知りえていたはずなのである。
つまり、僕ら捕食側には知りえなかった秘境。
そこに僕がいるのは不自然で、当然だった。

何が風に誘われて?どうしようもなく気持ちが高ぶって?馬鹿馬鹿しい。

単に、獲物の臭いに誘われただけの話じゃないか。

たまたま山から下りてきた風にここの獲物の臭いが混じり、偶然にもその風の通り道に僕が仮の巣穴を決定しただけのこと。
巣穴を固定している他の同族達の中にこの風の通り道に居を構えたものがいなかったのならばここの場所も知られていないのも不思議でもなんでもない。
ふいに目が覚めたのも、本能故の察知、駆け出したのも、ここにくれば獲物があると知っていたから。
結局は、僕の感じていた全ての感情は『食事にありつける』という単純明快な欲望からきたものだったのだ。

いや、それはそれでいいはずなのだ。
絶好の狩場を発見した。
ここを利用すれば、頻繁に使って彼らを遠ざけるような真似さえしなければ、飢えた時、緊急時の狩場として確実な場所となる。
僕は今生きていく上で最上級の狩りに成功した瞬間にあるわけだ。

でも、僕は愕然としていた。
心の中で自分に対する失望が広がっていくのを感じていた。
どうしようもなく自分にがっかりしていたのだ。

しかし、それでも。
僕の目の前には獲物である彼がいて。
その距離は十分すぎるほど近かった。
彼は僕が襲い掛かるタイミングを計っていると思っているらしく、背中を見せることも出来ずに、ただ、こちらを全身を固めながら見据えている。
それは彼にとって正解だった。
もし、彼が反射的に逃げようと走り出していたら、きっと僕も反射的に爪で彼の身を抉っていたはずだ。

頭を今朝の考えが過ぎった。

彼と僕との違いは何なのだろうか?
死と正を分かつほど彼と僕との間にある線は開いているのだろうか?
絶対的な結果を生む、差がどこにあるのだろうか?
この答えが…この答えがもし出るのならば僕は次の行動の選択をすることができる、そんな気がしてきた。

僕は彼に逃げろと願う。
そうすれば自分は答えを見つけずとも行動できる。
とりあえず追いかける、そして彼を殺す気で襲う。
逃げられたらそれまで。
仕留めれば何のことはない、これまで通りだ。
選択しなくて済むというのはこの上なく楽なことなのだ。

しかし、彼は逃げない。相変わらずただこちらを見据えている。
彼は僕に酷く厳しかった。

風が再度、僕を包んだ。

そして僕は彼に背を向けて、最初来た道を戻る。

答えなんか見つかってない。あえて理由付けるなら…

昼は、狩りの時間じゃない。

そう思うことで自分を今は納得させている。背を向けた草原の方から戸惑いがちの草を食べる音がする。
彼は生きる。
でも、決して僕がこの狩場の発見をなかったことにする訳でもない。
もし、今夜、彼が、僕が来た時にまた居たならば容赦なく襲う。
それは僕が望む、生きる為に生きている僕に必要不可欠な行為なのだから。

何とも言えない気分で雪道を歩いていると、
濃い桃色の破片が一片舞い落ちてきた。

山桜の花びら。

春は確実に訪れてきている。

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